中国人受難者・遺族の証言 于瑞雪

≪ 于瑞雪(1925年生まれ 1995年死去)≫

いちばん苦しかったのは毎日の労働でした。履く靴がなく、わらぞうりを編んで履きましたが、わらも無くなり、春と夏は裸足で、冬は足をセメント袋で包み、草でしばって働きました。雪が膝の下まであるときにも働きました。どうして生きてこられたのか、不思議です。

ある日、孫喜平が大隊長につるはしで顔を殴られました。幸い死にませんでしたが、ようやく冬を越えたのに、このままではいつかみんな死んでしまうと思いました。私は大隊長と3班班長が殺された「事件」の1週間前に、大隊長に警告して「同胞に悪いことをするな」と書いた紙を便所の中に貼りました。だれが書いたか分からないように、左手で書きました。「事件」は食料の不公平な分配がきっかけでしたが、計画的なものではなく、その場で憤慨してやったものです。

8月6日朝8時ごろ、私は両手に手錠をかけられて独房にいました。突然、衝撃波で頭の後を打たれ、右の耳にガラス片が刺さりました。建物がすっかり吹き飛ばされたので、私は外に逃げました。看守が手錠を片方はずしてくれました。日本人もみんな出てきて、罪が重いのか、腰と足に重い鎖をつけている人もいました。私の目は、何もかも黄色に見えて、はっきり見えなくなっていました。高い塀があったので、幸い生きていられました。