補償交渉
1993年8月、「交流をすすめる会」の招きで呂学文さんと孟昭恩さんが広島を訪問し、西松建設中国支店を訪ねて三項目要求(公式謝罪、追悼碑と記念館建設、しかるべき賠償)を提出して、補償交渉を始めた。
1995年5月には宋継堯さん、8月には遺族・楊世斗さんらが西松建設を訪ねて交渉した。しかし西松建設は、「強制連行は国策だった。労働・衣食などはできる限りのことをした。賃金は支払った」と主張して責任を認めず、頑なな姿勢は変わらなかった。
1997年5月、呂学文さんが来日して再び交渉したとき、西松建設は「日中共同声明などで問題は解決済みである」と言って、要求を全面的に拒否した。呂学文さんはやむを得ず交渉を打ち切り、裁判に訴えることを決断した。