日本人の証言 西松組現場監督

≪ 西松組現場監督≫

<現場監督として>
私は昭和15年から西松組がおこなった吉ヶ瀬発電所建設の工事をしました。吉ヶ瀬発電所の工事が終わった昭和19年頃から昭和20年5月までは、安野発電所の工事をしました。私は、昭和20年5月に召集されて兵隊に行き、9月になって帰ってきました。

安野発電所工事では、西松組の下で何人かの監督たちが働いていました。私はある監督の下で現場監督として働きました。私は7、8人の朝鮮人を使い、1人の朝鮮人が10~20人の「支那人」を使って工事をすすめました。

私は、発電所の基礎を作る工事をしました。発電所の建物、貯水池、放水路、立坑などを作りました。発電所はまず、土を掘って基礎打ちをし、発電機を据えてから、また土を埋め戻しました。

難しかった工事は、立坑の掘削でした。上からと下からと両方から掘っていって、両方からの穴をつなげるとき、どっと大量の土が下に落ちて、そのとき「支那人」が1人埋まりました。どんどん埋まっていって胸のあたりまで埋まったとき、私は上から見ていてどうしようかと思いましたが、よく働くやつだったので、助けようということになり、自分がおりていって、丸太を両腕の下に入れてそれ以上埋まらないようにしておいて、まわりの土をとって助けたことがありました。

使い物にならないほど、やせ細っていた
坪野には、朝鮮人は50人くらいでしたが、「支那人」は100人から150人くらいいたのではないかと思います。「支那人」はやせ細っていて、使い物になりませんでした。セメント袋1俵をようもたず、2人で抱えていました。朝8時頃から夜遅くまで働かせました。雪の日には、仕事の前に、朝1時間くらい雪かきをさせました。「支那人」は、黄色い色の兵隊服を着ていました。

「支那人」の名前はわからないので、番号で呼んでいました。ことばがわからないので、手まね、足まねで教えこみました。「たたいちゃいけん」ということでしたが、たたいた人もおったんじゃないかと思います。

「支那人」を使っていると、いつ逃げるかわからんと思っていました。一回、昭和19年だったと思いますが、ある晩、10人くらいが山に逃げました。それより以前に、やはり山へ逃げた朝鮮人が山から王泊におりてきたことがあったので、相談して翌朝、王泊で待ち伏せることにしました。朝を待って、探しに出かけました。自転車に乗って、10人くらいで行きました。あとからトラックも来ました。10時頃、縄をもって待ち構えているところに、やっぱり山からおりてきたので、全員捕まえました。

<姿をかくせと西松組が指示>
昭和20年9月、兵隊から帰って坪野に戻ったら、西松組から当分の間、どこかよそへ行くようにという指示が出たので、坪野を離れました。昭和20年の暮れになって戻ってきましたが、「支那人」はもういませんでした。

あの頃は、使う者も使われる者も、親しみを感じなかったのではないかと思います。