西松組(現在・西松建設)は厚生省に中国人の「移入」を申請し、厚生省は西松組に対し300人を認可した。1944年4月、西松組は直ちに労務係を中国に派遣した。山東省済南市の収容所「新華院」には、さまざまな中国人が収容されていた。日本軍の捕虜になった将兵のほか、農作業をしていたとき、埠頭で働いていたとき、家の中でご飯を食べていたときなど日常生活の中で日本軍に捕まえられた農民・商人・労働者、さらに監獄の中から連行された人などである。
300人は新華院を出発するとき、100人ずつの中隊に分けられ、3中隊で大隊が編成された。国民党軍などの上尉や少尉が大隊長や中隊長に決まった。新華院には幹部棟があり、幹部候補が収容されて教育が行なわれたという証言もある。
西松組は、大隊に編成した300人を日本軍の監視下に置いて青島に移送し、青島港に近い大港駅前の保安旅館に監禁した。済南から青島に移送する途中で汽車から1人が飛び降りて逃げ、さらに保安旅館から2人が逃げて、297人に減少した。西松組はこのほかに、独自に調達した認可外の63人を青島に集めた。63人は、日本軍との戦闘で捕虜になった兵士、市場から帰宅途中に日本軍に拉致された農民、路上で日本軍憲兵や中国人ヤクザに捕まえられた人などである。青島で合流した63人は4つ目の中隊となった。
1944年7月29日、360人は青島港から貨物船・錦隆丸に乗せられて出港した。船では飲み水がなく、食事も不十分だったので、3人が死亡し遺体は海に投げ込まれた。8月5日下関港に着いて検疫所で消毒され、下関で1泊した。翌日、汽車とトラックを乗り継いで、安野発電所工事現場に到着した。