安野での生活と労働

中国電力安野発電所は広島市から北西に約40km、太田川をさかのぼった山間部にある。

安野発電所は戦時中、戦争遂行に必要な電力をまかなうために、日本発送電(現在・中国電力)が広島県山県郡安芸太田町坪野(当時・山県郡安野村坪野)に建設した。工事を請け負ったのが西松組である。西松組は1944年5月に着工し、日本の敗戦で工事は一時中断したが、戦後中国人が帰国後に工事を再開して46年末に完成した。安野発電所は、土居で滝山川の水を山中の導水トンネルに引き込み、約8km下流の坪野まで運び、坪野で64mの落差を利用して発電する水力発電所である。滝山川は下流で太田川に合流する。

西松組は太田川上流の吉ヶ瀬発電所が完成した後、ただちに安野発電所工事にとりかかった。吉ヶ瀬で工事に従事した西松組監督、職員、朝鮮人労働者がそのまま安野の工事に移った。朝鮮人は経験をつみ技術を身につけた者が多く、工事遂行に不可欠な存在であった。朝鮮人の労働実態は明らかでないが、広島県警の記録によれば約800人が安野で働いた。中国人が安野に到着したとき、工事はすでに始まっていた。

新華院から連行された297人は、第1中隊(労工番号1番~100番)、第2中隊(101番~200番)、第3中隊(201番~297番)、認可外の63人は第4中隊(298番~360番)として、それぞれ坪野、香草、津浪、土居に配置された。なお、現地到着後、第3中隊から第1中隊へ、第4中隊から第1中隊へなど所属中隊を変更された人もいる。

第1中隊(坪野)は、発電所の基礎をつくる工事とトンネル工事を行なった。第2中隊(香草)と第3中隊(津浪)はトンネル工事を行なった。第4中隊(土居)はトンネル工事と取水口工事を行なった。

全長約8kmの導水トンネルの掘り口は全部で11カ所あり、うち6カ所で中国人が働いた。中国人が働いた現場では、日本人監督の下で日本人や朝鮮人の現場監督が中国人を使った。朝鮮人は削岩機で岩盤に穴を開ける、穴にダイナマイトを詰める、電気ドリルで壁面を平らにする、坑木を組むなどの技術や経験がいる仕事をした。中国人は主に発破で崩れた石をトロッコに積み、石を満載したトロッコを押してトンネルの外に運んで捨てる重労働を行なった。トンネル工事は昼夜二交代で休みなく行なわれ、1日平均1.5m、多いときは2m掘り進んだ。奥へ掘り進むにつれて、トロッコのレールを延ばした。

発電所の基礎工事は、発電所の建物、貯水池、放水路、余水路、立坑などをつくった。建物は、山を削り地下を深く掘ってから基礎打ちをした。
取水口工事は、川の中の石を拾って運び出してから堰堤を築いた。

工事現場では日常的に中国人に対して暴行が加えられ、工事は日本人―朝鮮人―中国人、さらに中国人同士を分断する差別、支配構造の中ですすめられた。

収容所は板張りのバラックで、冬は隙間風が吹き込み寒かった。建物の真ん中は通路で両側が寝床だった。窓はなく、出入り口を警察官と監視員が24時間見張った。寝具は新華院を出るときに支給され、自分で背負って来た布団と呼べない薄い布団が2枚だけ、また服も中国で支給された単衣だけしかなかった。靴は履いてきた布靴が破れた後は、ワラで草履を編んで履いたが、ワラがなくなると履物がなかった。冬になると、セメント袋を体に巻きつけ、雪の中を裸足で働いた。

食糧は、質の悪いものが少ししか与えられなかった。いつも空腹だったので、野草を食べたり、水を飲んで腹の足しにした。病気やケガで働けなくなると、食事の回数や量が減らされた。病人は治療されず放置され、重病人は寝床で死を待つしかなかった。

辛く苦しい労働と生活に耐えきれず逃げた人たちがいる。西松組安野出張所『事業場報告書』に記載されているだけでも、計4回、21人が逃げた。しかし逃げてもすぐに捕まり、連れ戻されて見せしめの制裁が行なわれた。中国人全員を広場に集め、日本人が立ち会い見張る中で、大隊長が中国人に命じて太い棒で殴らせた。

中国人の命は西松組の手中に握られていた。『外務省報告書』の記載によると、帰国までの約1年間に112人が負傷、269人が病気にかかり、29人(船中死亡3人、原爆死5人、殴打致死2人を含む)が死亡した。