中国人受難者・遺族の証言 楊世斗

楊世斗(遺族 1941生まれ)

1992年4月、河北大学の劉宝辰先生が私の家を訪ねて来ました。そのとき私は初めて、父が広島の安野発電所工事に連れて行かれて原爆で死んだことを知りました。私はそれまで心のどこかで父が生きているのではないかと思っていたので、本当に悲しかったです。母は、何も言えず大声で泣き叫ぶだけでした。

1944年、父がいなくなったとき私は2歳で、私と母の生活は苦しくなりました。私は6歳ごろから物乞いに行ったり、牛追いなどの仕事をしました。9歳のとき解放軍が来て村が解放され、学校に行けるようになりましたが、母の収入だけでは暮らせず、3年半で学校をやめました。その後は、ダム工事現場で土を掘ったり運んだりする作業や農作業をして働きました。他の子どもが学校へ行くのがうらやましくてたまりませんでした。

母は、針仕事や洗濯をして食べ物をもらったり、山で薬草を採って売ったり、農作業をして懸命に働きました。それでも貧しかったので、私は水を飲んで空腹をごまかしたり、犬が食べ残したものを拾って食べたこともありました。衣服もぼろぼろになった同じ服を着ていました。祖父母は息子を心配しながら亡くなりました。父が日本に連行されなければ、私たちは悲惨な日々を送ることはなかったのです。

1995年7月、私と母は初めて安野発電所を訪れました。山の上の発電所を見て、父がトンネルを掘り石をトロッコで運んだ仕事は、危険な重労働だったろうと思いました。私たちは収容所跡の空き地で、父を追悼しました。中国から持っていった酒をまき、線香をたき、タバコを供え、父に宛てて書いた手紙を燃やして父に送りました。

母は地面にうずくまって、「あなたは私と子どもを残して・・・」と泣き叫びました。私は、「敬愛するお父さん、今日、私たちはあなたを迎えに来ました。あなたの魂を殉難の地の土といっしょに、50年間離れていた祖国の故郷に連れて帰ります」と、父に話しかけました。そして、私は赤い絹の布に収容所跡の土を集めて包みました。この土は遺骨のかわりに家で大切にし、母が亡くなったときにお墓にいっしょに入れました。