日本人の証言 栗栖薫

≪ 栗栖薫(1929年生まれ)≫

<異様な食事風景>
父は西松組に雇われて、香草の中国人収容所の監視員をしていました。15歳だった私は、父に連れられてよく収容所に行き、中国人の様子を間近に見ていました。

中国人の夕食の風景は、寒々として殺風景なものでした。仕事を終えた50人近い中国人が収容所に帰ってきても、混雑のにぎやかさはなく、異様なほど静かでした。疲れ果てて物を言う者もいないのです。薄暗いし、人がいるのに静かで、不気味で陰気な感じがしました。中国人たちはテーブルのまわりに立ったまま、握りこぶしほどの大きさのマントウを1個食べるのです。おかずはなく、マントウを1個食べたら食事は終わりでした。

<びしょ濡れの服を着て寝る>
仕事から帰ってきた中国人の服は、びしょ濡れでした。トンネルの中は山水が上からポタポタ落ちています。場所によっては、ザァーザァーと音がするほどたくさんの水が流れ落ちて、地面は水浸しです。そんなところで働くのですから、全身がびしょ濡れになりますが、着替える服がありません。収容所のかまどには火があったので、何人かは火のそばで濡れた服を乾かしていましたが、大部分の人は濡れた服を着たまま寝床に横になっていました。

冬の寒い最中に、冷たい隙間風が吹き込む寝床に、疲れきった体を横たえ、空腹を抱えて、濡れたままの服を着て、薄い布団をかぶって眠るつらさはどんなものだったでしょう。

放置され死んでいった病人>
病気で動けなくなった中国人のことも、忘れることができません。父がある日、収容所の寝床で横たわっている1人の中国人を指さして、私にこう言ったことがあります。「あそこに寝ておる人は、いつ死ぬか分からない」と。それから何日もしないうちに、父は「あの人は死んだ。火葬したから、明日、骨をお寺に納めに行く」と言いました。病気になっても医者にみせることなく、収容所の寝床に放置されていました。

戦争中とはいえ、むごい扱いをしたと思います。人間としての扱いではなかったと思います。若い人は、私と同じ年頃でした。中国人たちは、当時の非人間的な仕打ちを生涯忘れていないはずです。