日本人の証言 尾坂秋三

≪ 尾坂秋三(2014年死去)≫

日本発送電の測量助手として>
私は、昭和20年5月から10月末までは志願して兵隊に出ていましたので津浪におりませんでしたが、昭和19年6月頃から兵隊に行く昭和20年5月まで約1年間、津浪で日本発送電の測量の助手をしていました。安野発電所の導水トンネルの測量をすることが仕事でしたから、実際に図面どおりにトンネルが掘り進められているかどうかを毎日チェックしました。

津浪のトンネル掘りの現場は西谷と東谷の2か所があり、中国人は東谷の方で多く働いていました。日本発送電の測量事務所は東谷の近くにあったので、中国人の様子をよく見ていました。

<やせ細り、雪の中をふるえて>
今から考えてみれば、ずいぶんの仕打ちをしたと思います。むごいものでした。

はきものといっても、片足は地下タビ、片足はぞうりをはいていたりして、まともな物をはいて歩いている者はいませんでした。地下タビでも破れてしまって脱げるものだから、脱げないようにわらでしばっていました。何もはかない裸足の人もおりました。

服はボロボロで、背中の方は穴があいているし、ズボンはももの方が出て、まともな服を着ている人はひとりもいませんでした。寒くなっても同じ格好です。着のみ着のままで、洗たくなんかしていなかったのでしょう。

宿舎はまわりに全部垣をして、出られないようにしてありました。毎朝、宿舎の前の道路に並べて点呼をとっていました。

食料といえば、毎日毎日麦のかゆみたいなものを食べて仕事に出るのだから、やせ細ってむごいものでした。

寒い時期に仕事に出るのは、本当にかわいそうでした。はきものもろくなものがないのだから、雪の中をふるえふるえ仕事に出ていっていました。

元気なまま国に帰ることはないだろうと思っていましたが、日本が戦争に負けたので元気な人は帰って行きました。