2つの事件と原爆による被爆
<国防保安法違反事件>
1944年11月7日、1人が夜勤の仕事中に逃げ、翌日逮捕されて加計署で取り調べを受けた。八路軍の兵士だと認めたために、事業場を超えた破壊工作事件がでっちあげられた。翌年、新潟に強制連行された張文彬さんと北海道に強制連行された2人が逮捕されて加計署に移送された。北海道の1人は重い病気にかかっていたので、死亡したと思われる。安野、新潟、北海道の3人は国防保安法違反の冤罪で有罪判決を受けて、広島刑務所に収監され、原爆の被害を受けた。3人は日本敗戦後に釈放され、それぞれの事業場には戻らず、3人だけで単独で帰国した。広島駅から汽車で下関に行き、下関港から船で釜山に渡った。朝鮮半島を北上し、ソウル、ピョンヤン、新義州を経て中国の丹東に帰った。それぞれ苦労を重ねて帰郷した。
<大隊長・3班長殴打致死事件>
1945年7月13日夜、坪野の第1中隊収容所内で中国人が大隊長と3班長を殴って死亡させた。容疑者として徐立伝さんら11人が逮捕され、加計署に留置されて取り調べを受けた後、送検されて広島刑務所の未決監に移送された。8月6日広島刑務所の独房で原爆により被爆したが、全員が生き残った。日本敗戦後、9月12日に釈放されて安野に戻り、皆と一緒に集団で帰国した。また、11人が逮捕された後、班長たち5人が首謀者の嫌疑で逮捕された。5人は8月6日、爆心地近くで取り調べを受けていて、全員が原爆死した。殴打致死事件は食料の不公平な分配がきっかけとなり一部の人が相談して実行したものであるが、逮捕された16人の多くは事件に直接関与していない。
<中国人が中国人を殴って死亡させた事件は、なぜ起きたのか>
1944年2月、日本政府は中国人を「移入」するにあたり次官会議で中国人の使用条件を詳細に定めた。この中に、「華人労務者の使用に当りては可及的供出時の編成を利用する如くし且つ作業に関する命令は日系指導員及華系責任者(把頭又は隊長)を通し之を発することとし華人労務者に対する直接の命令は厳に之を慎しむこと」という項目がある。
中国人の反感、抵抗のほこ先が日本人に向けられないように、中国人に中国人を支配・管理させる分断政策をとることを指示している。そのために、360人は中国を出るとき軍隊に似た組織形態に編成された。西松組は政府の指示どおり、大隊組織をそのまま労務組織として使い中国人を管理した。
大隊長は働くことなく、いつもきれいな服を着て、炊事係に命じて好きな時に好きな物を食べ、日本人の手先となって仲間を虐待した。3班長はそれに協力した。――2人は、日本政府が計画し西松組が実行した分断支配政策の被害者であり、言うまでもなく中国人強制連行の犠牲者である。