西松安野友好基金の和解事業 記念碑建立

記念碑建立

和解条項第3条に「後世の教育に資するために、安野案件の事実を記念する碑を建立する」と明記された。記念碑建立は、1993年8月の三項目要求以来、受難者・遺族の悲願だった。受難者・遺族と日本の支援者は、早い時期から記念碑について話し合い、日本で死亡した人だけを追悼する追悼碑ではなく、360人全員の名前を刻み歴史事実を後世に伝える記念碑をいつか建てたいと願っていた。長年の願いが和解によって実現したのである。

和解成立前、西松建設との和解協議が進展する中で開催した青島会議では、記念碑建立についても話し合った。2009年8月の会議では、記念碑の名称を「安野 中国人受難之碑」とすることを決めた。10月の会議では、360人が強制連行されたことや29人が日本で死亡したことにちなむ数字を石碑に取り入れたいという希望が中国側から出された。

和解成立後、安野の現地では、中国電力が敷地を提供してくださり、安芸太田町の協力を得て、建立場所が決まった。安野発電所がすぐ下に、上方には導水トンネルの出口である貯水槽が位置する小高い場所だ。太田川を望む深い緑に包まれた静かなところである。

記念碑の施工は地元の吉村石材店にお願いした。灌木と草で覆われていた土地を整地するところから工事が始まった。石材選び、碑の大きさや形、配置など吉村政則社長から的確なアドバイスを受けて決めていった。舞台の中央に主石碑、その両側に180人ずつ名前を刻んだ小さい碑を配した。主石碑の高さを360㎝、主碑の高さを290㎝、名前の碑の土台の高さを29㎝として、360人と29人にちなむ数字を入れた。主碑の表には、青島会議の決定に従って「安野 中国人受難之碑」と刻むこととし、善福寺の藤井慧心住職に揮毫していただいた。裏には、安野・中国人受難者及び遺族と西松建設株式会社の連名で、歴史事実、和解までの経緯、子々孫々の日中友好を願う碑文を、中国語と日本語で刻んだ。

受難者の名前は、建立までに本名が判明した人については本名を刻んだが、未判明の人については名簿に記載された名前を刻んだため、本名と異なる人がある。

「安野 中国人受難之碑」は、強制連行された全員の名前を記し歴史を後世に伝える記念碑であること、被害者と加害者の連名で建てられたことが特徴であり、ここに大きな意義がある。