中国人受難者・遺族の証言 邵義誠

邵義誠(1925年生まれ 2018年死去)≫

1944年7月、私はタバコを仕入れるために青島に行き、歩いているところをヤクザのような中国人に捕まえられてトラックの荷台に乗せられました。その後、レンガ造りの平屋に監禁されましたが、すでに10人ほどがいました。「日本に働きに行かせる」と言われ、逃げたいと思いましたが、見張りがいて逃げることはできませんでした。1週間ほどして私たちはトラックで青島港に運ばれ、貨物船に乗せられて日本に連行されました。

強制労働の現場が日本のどこか、当時は知りませんでした。毎日12時間、収容所前の川の中で石を取り除く仕事をさせられました。

1944年12月、私は疥癬という伝染病にかかり寝たきりになりました。体中が化膿して腐っていくようでしたが、治療してもらえず放置され、食べ物は半分に減らされました。1945年3月、突然、働けない者が集められて中国に帰されました。

私はようやくの思いで天津の家に帰り着きましたが、母は亡くなり、残された姉妹は家を他人に貸して親戚に身を寄せていました。私の体は、髪の毛も眉毛も抜け落ち、まっすぐ立つこともできない状態でした。

重い病気をかかえ住む家もない私は、物乞いをして路上で寝るなどしましたが、姉と相談して貸していた家を売って治療費にし、健康を取り戻しました。
1947年春、定まった家はないままでしたが、軽い仕事ができるようになりました。その後、徴兵された人の身替りで3回国民党の軍隊に入ったり、日雇いの仕事をしました。

強制連行されている間に私の戸籍は抹消されたので、定職に就くことができませんでした。戸籍を回復して52年にようやく定職に就き、翌年結婚して、売った家の1部屋を買い戻しました。
日本から帰国した後、8年間も流浪の生活をしたのです。自宅の4分の3は、今も人手に渡ったままです。