中国人受難者・遺族の証言 呂学文

≪ 呂学文(1920年生まれ 2003年死去)≫

私は、済南の日本軍の軍需物資供給所で日雇いの仕事をしていました。1944年7月、午後の仕事に行くためにトラックに乗ったところ、そのまま捕らえられて、「新華院」に収容されました。新華院は、電気の通った鉄条網を張りめぐらせた高い塀に囲まれ、塀の外には深い堀がありました。入口には武装した日本兵と軍犬がいました。「逃げなければ」と思いましたが、逃げることはできませんでした。

新華院で病気になると、病人棟に収容されました。ある日、病人棟の死体を数えるよう命じられ、病人棟に入った私はとても驚きました。大きいネズミが、死体や病人の上を這いまわっていたのです。目玉や耳、足の指、太腿などをネズミに食べられている人もいました。言葉では言いつくせない恐ろしい光景で、自分もこうなるかもしれないと思うと、身がすくみました。

約1カ月後、300人で1大隊が編成され、私たちは新華院を出ました。銃を持ち軍犬をつれた日本兵が道の両側を監視する中、済南駅まで歩きました。列車で青島まで連れて行かれ、監禁されました。その後、青島港から貨物船に乗せられました。船の中で死んだ人もいました。下関で上陸し、汽車とトラックを乗りついで安野村に着きました。

安野では、食事は1回に小さいマントウが1個だけだったので、お湯をたくさん飲んで空腹をごまかしました。私はトンネルの中で、重いトロッコを押したり、坑木を組む作業に従事しましたが、いつも西松組監督から侮辱されたり暴行を受けたりしました。

1945年7月のある日、収容所の中で、私たちが漢奸(売国奴)として憎悪していた大隊長と3班班長が殺される事件が起こり、私は事件と無関係でしたが、国に帰ることはできないと絶望していたので、「犯人」として名乗り出ました。そして8月6日、広島刑務所の独房で被爆しました。

新華院でも、船の中でも、安野のトンネルの中でも、被爆しても、私は死にませんでした。飢え死にもしませんでした。5回も死ぬ目にあったのに、私は生き延びることができました。私の命は、亡くなった仲間が与えてくれたものだと思っています。