中国人受難者・遺族の証言 周純修

周純秀(1926年生まれ 2004年死去)≫

私の仕事は、まきあげ機の運転でした。私がまだ17歳と幼く背が高かったので、この仕事をさせたのだと思います。山の下でトロッコにセメントと砂を積んでブザーが鳴ると、私は山の上で、まきあげ機でそれをクルクルと引っ張り上げ、今度は空になったトロッコを、ブザーを鳴らしてから下に降ろしました。

私は幸い病気もケガもしないで生き抜き、1945年末、青島に帰り着きました。私の姿は変わり果てていたので、母はすぐには私だと分かりませんでした。家族は全員が無事でした。

1948年、私は国民党の軍隊に入り、50年に台湾に来ました。台湾で結婚して家庭を築き、1983年に退役して、幸せに暮らしています。

大陸に里帰りできるようになったので、1989年に、私は40年ぶりに故郷の青島に帰りました。何もかもすっかり変わっていました。祖父母は亡くなり、文化大革命中に父は自殺、5年後に母も苦しみの中で亡くなり、2番目の兄は病死して、上の兄が残っているだけでした。悲しくてたまりません。私の一生は語りつくせません。