中国人受難者・遺族の証言 宋継堯

≪ 宋継堯(1927年生まれ 2010年死去)≫

空腹のまま長時間働かされたため、毎日がフラフラの状態でした。1945年3月、夜勤のとき、私が陳化書と2人で石を積んだトロッコを押して、トンネルから外に出た直後に事故が起こりました。トンネルから3~40メートル出た下り坂のカーブでブレーキが効かず、勢いのついたトロッコは脱線して崖下に転落しました。私はトロッコもろとも投げ出されて、顔は血だらけになり、目には砂がいっぱい入りました。

砂が入った目は痛くて、仕事ができる状態ではありませんでした。両目は腫れて熱も出ましたが、それでも治療してくれず、放置されました。目玉に何かを差し込まれるような痛みを、今でも忘れられません。異国の地で、目まで見えなくなって、このまま辛い生活を続けるのかと思うと絶望的になり、「死んでしまおうか」と思い何度も断食しましたが、班長や仲間が世話をし励ましてくれたので、なんとか生き長らえることができました。治療さえしてくれていたら、失明することはなかったはずです。

失明した私は、生きていくために「説唱」(うたい語り)を習い、1947年から自分で生活するようになりました。目の見えない者4~5人が1組となって村々をまわり、農作業を終えた農民に楽器を打ちならしながら孫悟空や水滸伝の物語を語って聞かせました。結婚後、子どもが生まれてからは子どもを背負って、「説唱」をして廻りました。農民は貧しいのでお金はほとんどもらえず、食べ物をくれるくらいでした。1つの村に1晩とどまって、翌日には次の村へ行きました。

1951年に長女が生まれましたが、学校に行かせることができませんでした。長女には半労働力として幼い時から働いてもらい、いちばん苦労をかけました。日本で失明したことは、私に生涯にわたる苦難をもたらしました。